
2 自分自身でありたい
オートバイに乗るようになってから「女性なのに…」「女性だから…」というフレーズを聞くことが以前に増して多くなった。
それが否定的な意見にせよ、肯定的な表現にせよ、「女であること」を前提にして成り立つ言葉には違和感を感じる。
性別でくくられるというのはどうにも不自由な思いがしてならないのだ。
私はオートバイでよく一人旅をする。旅の道中は日常のしがらみから解放されて、たえまなく本来の自分自身を取り戻していく。男とか女とか関係なく「自分らしく」いられるものだ。 それなのにオートバイを降りると「女性なのに」という言葉で話しかけてくる人があまりにも多すぎる。その言葉は枕詞のように慣用的で、口調を整える程度の用法であって特に意味はないことが多い。だから気にすることはない。でも私はその思慮に欠けた慣習的な言葉を不快に思う。
「女の子なんだから危ないよ。一人で大丈夫なの?」と始まり、「気をつけてね」と満足気に見送るおじさんがいれば「なんでバイクに乗るの?」「どうして一人で来たの?」と一見心配しているような顔をしながらも自分の好奇心を優先させて質問ばかりする人がいる。
だから私は、コンビニや道の駅で休憩する時は気が抜けない。いちいち話しかけられたくないのでそこには誰もいないかのように振舞う。その間緊張し続けるのでまったく休憩にならない。
あるいはナンバーと私を見て、「こんな遠くまで一人で来たの?!すごいね、えらいねー」という感じに話を始める人も多い。リッターバイクに乗っていれば「こんな大きなバイク乗れるの!たいしたもんだね」といった調子である。
私はこういった類の言葉も嫌いだ。子供の初めてのお使いでもないのに一体何がすごいのかと思う。
これが女性の能力を必要以上に低く見ているからこそ出る言葉ならば不愉快である。そうでなくともこういった話しかけ方が無難で、相手も悪い気はしないだろうというぬけぬけとした感じが嫌なことに変わりはない。
本当はこころよく気さくに接してくれる人に、何の悪気もないことを頭では分かっている。でもオートバイから降りるたび見知らぬ人に「女性なのに」「女性だから」などと言われると、女であることによって何かが私の自由を制約しているようで気分が悪くなる。私が変なこともよく分かっているが不快なんだから仕方ない。
オートバイはオープンマインドになれる乗り物だと誰かが言っていた。好意的な人と気持ちよく接したいという気は私も大いにあるが、まず女性として見て、女性として接してくる人たちにいい加減うんざりする。私は個人として、一人の人間として接したいし接してほしいのだ。
けれど無意識に女と男の領域を区別している人はたくさんいる。「女らしさ」や「男らしさ」にとらわれている人もいる。いまだに女性ライダーが珍しく見えるのは、オートバイに乗ることや一人旅をすること,冒険心や好奇心があること、これらを「男らしさ」ととらえている人だろう。もうそういう思い込みはやめたらどうだろうか。
確かに事実私は女であるが「男」や「女」というのはあくまでも一般概念のみで存在するものである。現実には個々別々の男女が存在している。なのにどうしてその属性でばかりものを見ようとするのだろう。
私は「男らしさ」を求めてオートバイに乗るわけではない。かといって息のつまりそうな「女らしさ」を求めて生きてもいない。私はただ自分らしくありたいだけである。「男らしさ」「女らしさ」などは誰かが勝手につくり都合のいいように押し付けてきた価値観だ。それを内面化させている人が大勢いても、私もそうでなくてはいけないことにはならない。
私は、女と男の領域を区別すべきではないと思う。誰だって完全に自分自身であるべきだ。性別という属性を重要視してその個別性を無視する世間の思い込みは、人間を不自由にするだけである。
でもまぁ、それはその人の人生だから私がとやかく言うことではない。だから私も誰からも価値観の押しつけに合わずに自由に旅がしたい。
(2007年6月 筆)
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