夏の終わり、福島県の裏磐梯を訪れた。磐梯山の北側に位置する、緑豊かな高原地帯である。
磐梯山ゴールドラインをぬけて、459号線を北へ走ると、もう風がひんやりと肌にしみる。道の駅「裏磐梯」で岩魚の塩焼きを食べて、大きく伸びをした。空が高い。
今、オートバイの背景になっているのは、夏を謳歌してきた青々とした緑ばかりである。でもじきに、秋があざやかに彩り、やがて真っ白な雪に覆われる静かな冬が来る。その、巡る四季の豊かさが、最近は妙に寂しく感じられるようになった。自然も人間も一日とて同じ表情を見せないということを、以前にも増して感じやすくなっているのを感じる。
それは、なんというか、「現在」がたまらなく愛おしくなる感覚である。「今」という時間には二度と戻れず、過ぎ去っていった過去は還らない。変わらないものは何もない。そういった当り前のことが、どうにも寂しくて痛いのだ。
つまり、おそらくは誰もが持っているある種の感慨深さを、私も例外なく、少しは感じるようになってきたのだ。
ときには過去を偲ぶこともあり、今日は子供時代に毎年家族で訪れていた懐かしいホテルに泊まるために、裏磐梯まで来ているのである。この道の駅からあと10分も走れば、その思い出のなかに存在する場所につくところだ。

雲の流れがはやい空、見知らぬ男性の「このバイクは何ccなの、自分も昔は乗っていてね・・・」と始まる退屈な話、あるいは思い出の地に近づく楽しさ、こういったもの達に心をかきたてられ、はやる気持ちを抑えて桧原湖を一周しに行く。459号線に出て、2号線と64号線で桧原湖を一周してくる道には、心地よいリズムがある。優雅に、道が、景色が流れていくのが楽しい。なにより、好きな景色と欲しい道を求めていったのに、それでいて、もはや引き返すことができなくなるほど遠くに行くことなく、また元にいた場所に戻ってこられるというのが、うれしい。
湖畔を走っていくと、それまで開けていた風景が森林の間を走る閉鎖的な空間へと変わった。見えるのはきれいな青空と、この先へ続く道ばかりである。
このとき突然、緑色の湿っぽい風が吹いた。それはまるで、草原についた朝露を思わせるような微かに水の香りのする風であり、その風の香りにふれたとたん、私はなぜだか郷愁に似た深い感動を覚えた。思い出が胸に刺さる寂しさがわきあがり、それ以上に懐かしくて幸せな深い安心感がある。私は思わず、風の色をみる。こんな具合に風を見ようとすることが他の人にあるかは分からないが、私にとっては初めてのことではなかった。
私はこの風の香りを知っている。ある時は、凛として張りつめた冬の空気に、なまぬるい南の風が混じり合う頃の奥多摩湖でこの香りをみつけ、またある時は、はごろもジャスミンが咲く春の道や、雨が通り過ぎた後のきらきら光る緑の中、それから霧の深い高原でも出会った。オートバイで走れば、季節を問わずあらゆる場所で私に巡ってきてくれた。そのたびに、私のうちにある何か、それが何であるかは分からないが、満たされた力強い喜びが広がり、あらゆるはかなさから救い出してくれる幸福感、実在感があった。なぜこの風がこんなにも私の味方のように感じられるのか、以前より不思議に思っていた。
マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』という小説には、次のような一説がある。
「はるか過去の彼方から、残っている物が何もない時、つまり人は死んでしまって、物も壊れたり散逸したりしてしまったあとには、味と匂い、もろいものなのに長続きし、実質性がないのに持続性がある味と匂いだけが、人の魂のように長くとどまり、他のすべてのものの廃墟の中で、思い出したり、待ったり、期待したりしながら、その精髄のごくわずかな、気づかないほどの一滴の中に、追想の壮大な構造の全体をひるむことなく抱き留めているのだ。」
これは、匂いというものが、視覚や聴覚よりもずっと持続性があり、時間への依存がはるかに少ないということである。このことの真偽は知らないが、ただ私には共感するものがあった。確かに、風の運んでくる匂いが呼び起こす感情と、たとえば、昔流行した音楽を久しぶりに聴いたときに思い出される昔の場面や感情とは、明らかに違うように感じる。匂いは意識的な回想すら出来ないのに、もっと深くてもっと遠い何かが蘇るようなのである。
私のうちで何かが明るくなりそうで、シールドをあけて風をおもいきり吸い込んだ。
そうか、私の大好きなこの風の香りも、やはり視覚的な思い出と結びついているのだ。でもその思い出はあまりにも遠いところにあって、忘れられた記憶の風景が私のところにやってこようと努めているのではないか。
そうだとするならば、過去のどの場面でこの風の香りが持つ記憶を手に入れたのかを知りたいと思った。
そしてそれは、まさにこの裏磐梯であるような予感がしてならない。先へ走る思いと一緒に、アクセルをあける。思い出のホテルはもう目の前である。
ホテルに着くと、優しい思い出を持つ景色は、私の期待を裏切ることなく変わらずに待っていてくれた。ロビーの赤いじゅうたん、私たち家族がいつも泊まったログハウス、雪がふかふかに降り積もり大はしゃぎしたテニスコート、どの景色も大人になった私を抱き留めてくれる。敷地内を散歩しながら、思い出しては立ち止まり、立ち止まっては思い出す。次々に溢れてくるその昔の日々のことを現在のことように考えるのは、あまりにもうれしい時間だった。
この、子供のころの感覚を追体験していくような時間をゆっくり楽しもうと、ホテルのレストランでコース料理の夕食にする。レストランから眺める庭は、記憶よりもずっと美しい。

黄緑色に光る芝は、広々とした草原を思わせる。その奥には深い緑の色を映した弥六沼が、湖のように穏やかに風に揺れ、そして遠く、磐梯山がそびえたつ。
前面に水があり、その背後に山がある風景は、風水思想の背山臨水の風景であり、人々に安らぎを与える最も安定した風景だといわれている。
なるほど、この景色は郷愁を誘う。それは単なる目の前にある光景ではなくて、かけがえのない存在のように思わせる、聖域のようであった。
私は今とあの頃に思いを馳せながら、レストランの方が運んできてくれたパンを口にする。まだ温かいパンを飲み込むと、突然胸が熱くなり、涙が溢れた。ぼろぼろとまらなかった。子供時代には永久に続くと思っていたたくさんのものが失われ、あらたなものが建設されていったこと。なんて幸せな子供時代だったかと思える両親の愛情の大きさ、そして私の生き方がそれと同じだけの愛を返せていないということ。色々な思いが巡り、どんなに楽しい思い出も胸に刺さる。私は流れてくる涙を止めることができず、静かに泣きながら食事をしていた。
心配して声をかけてくださったレストランの方には、「思い出深くて感動しちゃって・・」と言葉に詰まるばかりで、迷惑をかけてしまった。でも、じきに泣きやみお腹もいっぱいになると、一日の疲れが心地よく感じられた。私はまだまだ子供のようである。
レストランの方にお礼を言ってから庭に出ると、またあの風の香りに優しく包まれるので、もう胸がいっぱいでここから一歩も動きたくなかった。
日が暮れた弥六沼を前にして、大好きなオートバイに寄りかかる。
静かに、静かに、時が流れる。幸せな気持ちと湿っぽい風のなかで、私はようやく理解した。
この風の香りは、ずっと遠い昔、家族の優しさに包まれた幸福感、大きな安心感とともに、この場所で出会っていたのだと。
本当は風の香りを幸せな時間と結びつけてとらえるということは適切ではなく、今日思い出の地でこの大好きな風と一緒にいられることもただの素晴らしい偶然かもしれない。でもそう思いたかった。そう思い込んでしまえば、変わらないものなど何もないということが、寂しくとも辛くとも、風の香りが連れてきてくれるこの情景はいつも変わらない。大好きな人たちの優しさに満ちた、包括的で幸せな記憶の情景を失うことはないのだから。
どのみち、形なきものを幸せの記憶と結びつけたところで、形がないのは同じことで、自分のなにものでもない心の状態として、私はそれを幸福だと感じられるのだから、それでいいのではないか。
私はまるで暗記するかのように、いつまでもこの景色を眺めながら、いよいよ鋭い魅力あるものになったオートバイのタンクをなでる。
今までオートバイによって世界を広げられるのは、行動することによる未来に対する広がりだと思っていた。しかし心のままに風を感じることによって、私は追想の可能性すらも手にした。まるで私の世界が、未来だけでなく過去へも広がりだしたようである。それが出来るのは、オートバイが、風の色を見て、風の音を聴き、風の香りを見つけることが容易な乗り物だからである。
さて、あなたには好きな風があるだろうか。心のままに風を求めたさきには、いつまでも変わらない大事な何かが、きっと待っていてくれる。
(2008年11月 筆)
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バイクにまつわるエッセイ集
1オートバイと一人旅
2自分自身でありたい
3見えないものにしばられたくない
4日本一周という目標
5乗り始めた理由
6乗らない日々の罪悪感
7八丈島へ
8風の香る場所
9拝啓オートバイ様
10日々平安
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